2018年2月18日日曜日

想田和弘監督インタビューしました。


2018年2月17日16時〜上映
映画「港町」
 舞台は、この映画のタイトルどおり、小さな港のそばの街に住む人々が主人公である。私はこの映画を見ていて、ある一つの絵画の展覧会Documenting Senses – イヌではなくネコの視点によって -を思い出していた。福永大介さんの個展の名前であり、作者は自分と作品との関係について、こう書いている。「まるで、飼い主に連れられて散歩する犬では無く、赴くままに自分の行く先々でひっそりと佇んで何かをじっと見つめているネコの様なもんだなあとか思ったりして。」
 想田監督のこの映画「港町」の中には、猫がよく出てくる。彼らは、漁でこぼれ落ちた魚を狙って港の周りで生きている。そして、その猫たちに余ってしまった魚をあげる住人達もいて、この港には猫と魚と人間とをめぐる小さなコミュニティーが存在することをこの映画は知らせる。とても小さな船着場に佇むあるオバァさん=こみやまさんは、その場所を決まった時間に通り過ぎる人やその近所に住む人、その場所に船を停泊させる年老いた漁師の村田さんなどを良く知っている。彼女は、その人達が一体どんな家族を持っていて、どういう風に生きているのか、少しずつカメラの前で話す。彼女は案内人だ。想田監督は、カメラを構えて頷き、彼女の話に耳をすます。
 最初の場面は、こみやまさんが、カメラの前に立って、漁師の村田さんと話しているところだ。村田さんのズボンには、縫った跡がある。ズボンが魚くさいために、そこに猫がよってきて、かじって穴が空いてしまったんだよ、と会話をする。映画祭の会場からはどっと笑いが漏れた。
 村田さんが早朝、漁に出る場面。カメラは、暗闇の中に浮かぶわずかな光の中で彼が漁師として仕事をする姿を捉える。早朝の暗闇の中で様々な種類の魚が示されていく。私もそこに何がいるのか見入ってしまう。言葉がなく、カメラと村田さんとの二人だけの時間がある。低い船の機械音は映画館の中で響き、まるで映画館の中に座っている自分とその漁師である村田さんの二人だけが船に乗っているような臨場感があり、映画の中に没入する。網を海水から上げて、魚に絡まっているそれをとっている村田さんと想田監督は、突然話をした。「生きているのと死んでいるのは、半分くらい値段が違う。」魚のアップが引き続き映される。私は、こんなにとれたての魚と対峙する時間を今までに体験したことがないと思った。さらに、漁が終わり、魚を市場へと持っていく村田さん。競り場での人々の様子や、購入された後に個人商店の魚屋へと持って行かれるところまで丹念に描かれる。
 魚屋の主人・こそうさんは、車に魚を乗せて街に売りに行く。多くの町人が魚を求めて買いに来る。彼女は、魚屋から車に乗りこもうとした時、想田監督に「ついてくるの?」と声をかける。それは新鮮な声かけだった。魚を売りながら近所の人と話すたびに、彼女は想田監督がどこから来た人で誰であるかを町人に説明して回る。街に住む様々な住人が示された後、「牛窓」というこの街の名前が示されて、この街の紹介が一段落する。もちろん、それは編集で作られた監督の技でもあるわけであるが、あまりにも自然な流れで、あたかも本当に猫が町を魚を求めて散歩している視点のようだ。
 私は、この映画の白黒のことを考えていた。魔法がかけられたかのように、時間が永久に映画の中に封じ込められたような感覚があった。

 監督の言葉にこう書いてあった。この映画「港町」は、観客は夢やイリュージョンを見ていたように感じるだろうと。そのこととドキュメンタリー手法の大きなテーマである「真実を描くこと」の境界線をどう監督は考えているのか。それについての一つの答えを、もしかしたら、最後のカットで表現していたのかもしれない。それを考えると、この映画は、本当によくできた映画だ。



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